ページ内を移動するためのリンクです。


国立社

会保障・人口問題研究所

  • 文字サイズ


 

11 生活保護

 

1.生活保護の「適正」実施とその影響

 1980年代の生活保護は、暴力団による不正受給事件のマスコミ・キャンペーンで幕が開いた。これにたいし厚生省社会局保護課(当時、以下同じ)は1981年(昭和56)社保第123 号通知「生活保護の適正実施の推進について」を出して保護の「適正」実施を強力に推進し、全国の福祉事務所の現場レベルで多くの緊張関係をもたらした。1980年代は経済の低成長、国家財政の硬直化、福祉見直し論など1970年代からの懸案を引き継いで第2次臨時行政調査会が設置(1981(昭和56)年)され、社会保障制度全体の「見直し」が着手され始めた時期でもあった。さらに生活保護も含めて社会福祉全般の国庫負担の削減も先行して行われ、地方自治体への財政負担増をもたらした。

  上の社保第123 号通知は、保護の新規申請者の全員と保護受給中の必要と思われる世帯に対し、福祉事務所が預貯金の有無などについて関係先を独自に調査できるよう、あらかじめ該当者から包括的な「同意書」を徴収して、保護の適格性に関する調査の徹底を全国の福祉事務所に求めたものである。これと合わせて1983(昭和58)年には社監第38号「生活保護特別指導監査の実施について」を出し、監査の強化も行った。こうした一連の動きは生活困窮に苦しむ市民が福祉事務所に生活の相談を行い、場合によっては生活保護の申請にいたるという本来の社会福祉的な機能が後退し、保護申請の窓口段階の規制や資格審査のための挙証資料の収集・調査が福祉事務所の第一線ではびこるという、殺伐とした状況を呈することになる。このことが1980年代から1990年代にかけて、大まかに述べれば三つの歴史的な特徴を直接・間接に生み出す大きな要因となった。

 一つは1985(昭和60)年以降に顕著になった保護受給者の急激な減少である。もちろんこれにはバブル好景気による経済的要因、障害基礎年金制度の拡充などの制度的要因も考慮に入れる必要もあろう。だが次の札幌市の事件にみるように、生別母子世帯への保護の抑制や自立の推進が特に強く行われた。その結果、急激な保護受給者の減少のうち、母子世帯の減少は特に激しく、たとえば母子世帯の被保護世帯に占める割合が1984(昭和59)年に14.6%であったものが1998(平成10)年には8.2%にまで低下している。他の高齢者世帯や傷病・障害者世帯は単身世帯が圧倒的に多く、それに比べて母子世帯は最低でも二人以上の世帯である。この母子世帯の急減少は全体の保護受給人員や保護率の減少に大きく寄与するのである。一方、1990年代を通じて急増したホームレスも、一因として、こうした福祉事務所の厳しい対応の結果によると考えられる。

 二つは当時、マスコミが注目したいくつかの悲惨な事件や出来事である。たとえば1987(昭和62)年1月22日、北海道札幌市で母子家庭の母親が餓死した事件[1]や同年、東京都の荒川区で福祉事務所に抗議の遺書を残して老人が自殺した事件[2]などである。また1993(平成5)年にはある福祉事務所の生活保護担当職員が集団で生活保護の受給者を侮蔑する川柳を詠み、それが任意団体である全国公的扶助研究会連絡会の機関誌に掲載された、いわゆる福祉川柳事件[3]である。厳しい仕事の環境が地方公務員のモラルを蝕んだ結果であろう。

  三つには生活保護に関わる行政訴訟の多発である。たとえば1990(平成2)年に柳園訴訟(京都)[4]、加藤訴訟(秋田)[5]、翌1991(平成3)年に中嶋訴訟(福岡)[6]、1992(平成4)年にゴドウイン訴訟(神戸)[7]、1994(平成6)年に林訴訟(名古屋)[8]などが主なものである。訴訟の争点は保護費を原資とした預貯金蓄積の是非(加藤訴訟)や返戻金を前提とした郵便局の学資保険加入の是非(中嶋訴訟)、非定住外国人への医療扶助適用の是非(ゴドウイン訴訟)やホームレスへの生活保護適用の是非(柳園訴訟、林訴訟)などである。いわば補足性の原理の運用に関わることや、特定グループに対する生活保護からの排除などが中心である。そして上に上げた訴訟についてみただけでも柳園訴訟と加藤訴訟は地裁判決で原告が勝訴し、そのまま判決が確定。また中嶋訴訟は最高裁でほぼ原告勝訴で判決確定といった状況であり、司法判断が生活保護行政のあり方に問題を投げかけている状況が続いてきたのである。

  こうした状況を顧みると、生活保護に限ってみても1980年代から1990年代は生活保護行政にとって、暗いトンネルの時代であったと比喩的に表現してよかろう。第三次適正化の時期と一般に受け止められている。こうした状況をもたらした要因として、本稿の冒頭で社保第123 号「生活保護の適正実施の推進について」をあげたが、これが究極の原因であると考えると本質を見誤ることになろう。これはあくまで差別の強力な促進要因だったのであり、根底には生活保護の対象を不断に選別し、極限しようとする、現行生活保護法に内在する本質的・体質的な差別の再生産構造があることを忘れてはならない。

 さて新世紀に近づくにつれ、ようやく暗いトンネルを脱したかにみえるいくつかの出来事が起きた。一つは、社会福祉の基礎構造改革が声高に叫ばれ、関連して生活保護の再検討の必要性が認識された。それ故、現行法の制定以来、50年ぶりの抜本的な見直しを行うため、2003(平成15)年7月、厚生労働省内に「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」が設置された。2004(平成16)年12月、同専門委員会は「生活保護制度の在り方に関する専門委員会報告書」を出したが、結果は法改正を必要としない微調整に終わるものであった。これとは別に長い間、生活保護行政が現場レベルで半ば排除してきたホームレスに対して、各地での訴訟などの影響もあってか、ようやく2000年を過ぎた頃から厚生労働省はホームレスへの保護の適用を促し始めた。さらに2002(平成14)年8月、包括的なホームレス対策として「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が時限立法として制定された。これに関連して保護課長通知「ホームレスに対する生活保護の適用について」が出された。

 

2 生活保護に関するその他の動向 

  1980年代、生活保護に関わるその他の動向として、生活扶助基準や加算、そして勤労控除など、いわば生活保護の保障水準を金額の面から規定する基本的な変更が行われた。先ずは1983(昭和58)年3月、第二次臨時行政調査会の第五次答申で生活扶助基準の設定方式や加算などのあり方を見直すように求められた。これを受ける形で厚生省は同年12月の中央社会福祉審議会「生活扶助基準及び加算のあり方について(意見具申)」に沿って翌(1984) 年の生活扶助基準の第40次基準の改訂から従来の格差縮小方式をやめて、新しく水準均衡方式を導入した。この新方式では保護世帯と一般世帯の消費水準の格差を、今後は(縮小ではなく)現状維持を貫くこととなる。ちなみに1983年度ではこの格差は62.3%であった。

  つづいて1985(昭和60)年には生活扶助基準額の男女格差が廃止された。また同年12月には再び中央社会福祉審議会の「国民生活の変化等に対応した生活保護制度のあり方について(意見具申)」が出され、級地制度の細分化と加算制度の見直しを求めた。これを受けて厚生省は1986年度の基準改定で、勤労控除については職種区分を撤廃して収入金額比例方式に一元化し、他に勤労控除の算定に世帯単位を導入するなど、加算制度も含めて2級地制を3級地制に細分化して、実質的に生活水準の切り下げにつながる見直しを行った。

  1987(昭和62)年には級地制度の3級地制を細分化し、実質6級地制にして地域格差を拡大する改正を行った。従来の最大格差は100対82であったが、今度は100対77.5に拡大し、これにより農山村地域では保護基準の実質切り下げが行われた。

 こうして1980年代には保護基準額の見直しが行われ、それまでの生活扶助水準の改善、すなわち一般世帯の消費水準に近づけようとする政策はここに来て転換され、格差の現状維持と一部、水準の引き下げを行っている。これをみると、生活保護の金額的な保障水準はすでに妥当な水準に達し、むしろ一部には高すぎるとの認識が厚生省にあった。生活保護の保障水準を直接規定するものを生活扶助基準や加算などのフロー部分と、住宅、預貯金、耐久財などストック部分に分けて考えると、前者のフロー部分は大きな争点とはならなくなったことは確かであろう。しかし後者のストック部分は現場レベルの保護の「実施要領」で保有の可否や取扱い基準などが詳細に決められており、こちらの改善は遅れに遅れた感がある。そのため1990年代に入ってからは、この部分が裁判で鋭く問われることになったのである。訴訟についてはすでに紹介したので、ここではバブル好景気に大きく問題とされたもう一つのトッピクスに触れよう。それはバブル経済期の土地の異常高騰のあおりを受けて、保護受給者の居住用不動産の保有をそのまま認めてよいかどうかという点が問題視された。そこで厚生省は1987(昭和62)年社会局長の私的懇談会である生活保護制度運営研究会を発足させ、同研究会は同年12月「不動産保有者に対する生活保護のあり方について」を報告した。この「報告」では、(不動産保有の是非に関わる)判断基準の明確化や貸付制度の創設を求めていたが、結局、1988年度の実施要領を改訂し、「判断基準」を都道府県知事が定めた不動産の価値(金額)を標準とすべきこと、ローン支払い中の不動産保有者に対しては保護の適用を原則として行わないことなどを定めた。

 

                                                                 (清水浩一)



[1]この事件についての詳細は水島宏明(1990)『母さんが死んだ』ひとなる書房、久田恵(1994)『ニッポン貧困最前線』文芸春秋、寺久保光良(1988)『「福祉」が人を殺すとき』あけび書房などを参照。

[2]この事件については、寺久保光良(1988)『「福祉」が人を殺すとき』あけび書房p132-136を参照。

[3]この事件の詳細については、大友信勝(2004)『福祉川柳事件の検証』筒井書房を参照。

[4]京都地方裁判所「柳園訴訟地裁判決」を参照。

[5]秋田地方裁判所「加藤訴訟地裁判決」を参照。

[6]福岡地方裁判所「中嶋訴訟地裁判決」、福岡高等裁判所「中嶋訴訟高裁判決」を参照。

[7]この訴訟は、くも膜下出血で緊急入院したスリランカ人留学生の入院費用について神戸市が生活保護を適用したが国はこれを認めず、国庫負担の支出を拒否。これに対し神戸市民グループが国に対して神戸市が負担した国負担分の返却を国に請求したものである。最高裁まで争われたがすべて原告敗訴。訴状、判決文などは、全国生活保護裁判連『これでわかる生活保護訴訟のすべて』2,3巻を参照。

[8]名古屋地方裁判所「林訴訟地裁判決」、名古屋高等裁判所「林訴訟高裁判決」、最高裁判所「林訴訟最高裁判決」を参照。