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国立社

会保障・人口問題研究所

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15 障害者福祉

 

1.1980年代〜1990年代前半―国際障害者年が起点になった社会参加の拡大

1.「遅れてきた福祉国家」の障害者政策と理念の齟齬―入所施設・分離型教育の偏重

(1)遅れて始まった入所施設整備の影響 

 1960年代に障害種別の制度が確立し、1970年代半ばになってようやく施設整備網が全国に行き渡った日本においては、同時期にアメリカと北欧で生じていた入所施設批判に速やかに対処することは難しかった。国際障害者年の公式行事を控えていたこともあり、1980年から「施設の社会化」を「施設のオープン化」とするとの厚生省の指針がでた。しかしその指針も施設を拠点にし、そこに留まって地域住民と接触を試みるという限界を有し、従来のパターンを払拭するものではなかった。

(2)同じく拡張し続ける分離型の特殊教育制度

障害児教育分野では1979(昭和54)年から実施される養護学校教育の義務化によって、全員就学が実現した。しかし、それは分離型教育であった。このことから養護学校卒業生のための新たな社会参加の施策−例えば、就労の確保や週末の場の設定−が認識された。しかし、同時期の欧米ノーマライゼーション理念に照らしてみると、その施策は、入所施設偏重の施策と同じく閉塞的で自己完結型の制度に陥りがちで、結果的には卒業生がよく利用する小規模作業所との落差が目だった。学校教育と福祉サービスとの制度間の格差是正は、ほぼ不可能であった。

(3)国際障害者年の意義

こうして迎えた1980年代は、1981(昭和56)年国際障害者年を起点にして、ノーマライゼーション理念の定着が図られ、権利保障を求める運動が各地で展開された。先に1975(昭和50)年に国連は「障害者の権利に関する宣言」を採択していた。その後、1982(昭和57)年12月には「障害者に関する世界行動計画」で「完全参加と平等」の標語を掲げて、1983年〜1992年を「国連・障害者の十年」とし、各国に具体化を求めた。

国連の意向を受けて日本では、1980(昭和55)年3月閣議決定で総理府に国際障害者年推進本部を設置、1981(昭和56)年1月首相「国際障害者年を迎えて」の声明発表、同年11月に国際障害者年日本推進協議会「国際障害者年長期行動計画」、そして翌1982(昭和52)年3月国際障害者年推進本部「障害者対策に関する長期計画」が出された。

また1980(昭和55)年には障害概念の転換のたたき台になる「機能障害」「能力低下」「社会的不利」の3つのレベルで障害を見るWHO「国際障害分類試案」(ICIDH)も発表され、その批判と修正作業を通じて当事者参加の場が確保され、やがてここから新しい障害理論形成が始まっていく。

 

2.地域福祉・在宅福祉への方向転換が意識され始める

 国際障害者年の大々的な上からのキャンペーンによって、日本の施設中心の施策は、理念としては地域福祉型に転換していった。例えば1982(昭和57)年3月には身体障害者福祉審議会「今後における身体障害者福祉を進めるための総合的方策」が出された。しかし、欧米発の脱施設化なるものの当初の情報の理解度や受けとめ方には、かなりの食い違いがあった。加えて1970年代前半に入所施設整備計画を敢行した特殊日本的な経緯もあり、既存施設のさらなる拡充策こそが施設関係者団体では優先され、結果的に地域福祉・在宅福祉への方向転換にブレーキをかけてしまった。

知的障害の分野は、1980年代末にようやく脱入所施設の施設改革に踏み出した。それは1988(昭和63)年10月中央児童福祉審議会「精神薄弱者の居住の場のあり方について―グループホーム制度の創設への提言(意見具申)」と、翌1989(平成元)年5月グループホーム制度化であった。その福祉需要の潜在的な大きさにもかかわらず、居住政策としてはいまだに遅れの目だつ領域であった。

精神障害の分野は久しく保健医療の対象であったが、1980年代後半から改善の動きが出てきた。国際障害者年・行動計画の影響というよりは、1984(昭和59)年宇都宮病院事件が引き金になった。また、1970年代アメリカやイタリアの脱病院化と同じく、医療費削減の意図が背景にあった。高齢者も含めた社会的入院の解消を目指して、1987(昭和62)年9月に精神衛生法を精神保健法に改正し、精神障害者社会復帰施設の法定化を盛り込み、そして医療偏重からの脱却が志向された。

さらに、1995(平成7)年5月「精神保健法の一部を改正する法律」でもって「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」へ改正した。また、1997(平成9)年12月の精神保健福祉士法により、1996(平成8)年5月「精神障害者地域生活支援事業の実施について」などの地域生活支援事業の担い手供給が可能になった。しかし、依然として雇用などの施策の遅れは著しかった。また地域で総合的な保健医療福祉サービスを受ける基盤づくりも、1998(平成10)年9月公衆衛生審議会精神保健福祉部会精神保健福祉法に関する専門委員会「精神保健福祉法に関する専門委員会報告書(概要と本文)」や、翌1999(平成11)年1月公衆衛生審議会「今後の精神保健福祉施策について」で継続審議に付されるが、具体化にはほど遠かった。

 

3.第2臨調と障害者施策の関係――障害基礎年金と費用徴収の組み合わせ

第2臨調は1980年代半ばまでは障害者施策に影響を与えたようには見えなかった。しかし、障害基礎年金制度と同時期に、知的障害者施設・身体障害者施設においても費用徴収の導入がされた。具体的な検討は、1983(昭和58)年7月障害者生活保障問題専門家会議「報告書」、同年8月身体障害者福祉基本問題検討委員会「報告書」に始まり、1985(昭和60)年12月に中央児童福祉審議会費用負担部会「精神薄弱者援護施設等に係る費用徴収基準の改正について(意見具申)」と、身体障害者福祉審議会「身体障害者更正援護施設に係る費用徴収基準のあり方について(意見具申)」が出てきた。

むろん市場化・営利化の導入は1997(平成9)年を境にして表面化するのであるが、萌芽といえる動きは老人福祉に端を発する施設での費用徴収に見られるし、具体的な起点はやはり1989(平成元)年3月社会福祉関係3審議会合同企画分科会「今後の社会福祉のあり方について(意見具申)」であった。ここでは「国民の福祉需要に応え」「長寿・福祉社会を実現する」べく、市町村の役割重視、在宅福祉充実、医療・福祉の連携強化、福祉職資格制度の拡充などの、後の布石になる政策理念がすでに敷かれていたからである。

以後、地方自治体の財政力の格差を鑑みながら、どのような程度に市場化・民営化を受けとめ、いつ、どの社会福祉の分野から規制緩和を取り入れ、受益者負担の原理に差し替えるのかが懸案事項になっていった。

 

4.1990年代前半のノーマライゼーション理念の到達点

(1)「国連・障害者の十年」以降の国際動向

1980年代に定着したノーマライゼーション理念は、1991(平成3)年7月中央心身障害者対策協議会「『国連・障害者の十年』の最終年に当たって―取り組むべき重点施策について」、1992(平成4)年4月「アジア・太平洋障害者の十年」決議(1993年〜2002年)、1993(平成5)年1月中央心身障害者対策協議会「『国連・障害者の十年』以降の障害者対策の在り方について」、そして同年3月障害者対策推進本部の法定計画「障害者対策に関する新長期計画―全員参加の社会づくりをめざして」策定による10年間の総括と、さらなる課題を示した。

国連主導によるこの運動論的理念と各国・各地域での行動計画は、人権保障を制度化という形で進化させた点で、その意義は高かった。次のステップとして、1994(平成6)年12月国連総会は「障害者の機会均等化に関する標準規則」を採択[1]、機会の均等化に向かう「道徳的及び政治的なコミットメント」と、平等参加のための長期戦略を定めた。

(2)8法改正と障害者基本法および障害者プラン

1990年代前半の施策の動きは、社会福祉関係8法改正による在宅福祉サービスの法定化で始まり、1993(平成5)年12月障害者基本法公布によって身体障害者・知的障害者に加えて精神障害者が対象に明記され、障害者の日や障害者基本計画も盛り込まれた。これを受けて、1995(平成7)年7月「障害者保健福祉施策推進本部中間報告」と、同年12月「障害者プラン〜ノーマライゼーション7か年戦略」(目標年次は2002年度)により、具体的な手順と整備の数値目標を記した計画策定が示されるが、努力義務とされたために市町村における策定内容や進捗状況には格差が見られた。

ここで小活しておくと、1990年代半ばまでには少子化と高齢化の問題が連結され、制度改革課題に浮上するものの、まだ障害者福祉施策にまで大きな変化は及ばなかった。では抜本的見直しに、いつから入るのか。以下の2では、障害者福祉政策の抜本的見直しの条件が醸成される時期、すなわち1997(平成9)年6月児童福祉法等の一部改正から同年12月介護保険法公布までの期間にまず注目し、次いで1997年暮れから1998年前半の経緯を重点的に取り上げる。

 

2.1990年代後半〜支援費制度まで――社会福祉基礎構造改革下の障害者福祉

1.高齢者・児童と障害者プランをふまえて制度横断的に考える施策へ

措置制度の一部見直しは1980年代初頭に具体的に提起され、それ以後も断続的にではあれ論題にされ続け、1990年代半ばには介護・保育では措置制度見直しは不可避という段階に進んだ。この時期には厚生省内での縦割り行政で見えにくかった高齢者・児童・障害者福祉のそれぞれの問題点を制度横断的に検討し、優先課題や緊急性の高いものを示し、それを市町村での地域福祉・在宅福祉として束ねていく計画も固まった。この発想にいたる過程でたたき台になったのは、むろんゴールドプラン策定時の情報であった。

こうして相対的に遅れが目だっていた障害種別の積年の諸課題も、1990年代後半から一斉に審議されていった。ここからのスピードは迅速であった。1996(平成8)年7月厚生大臣官房に障害保健福祉部を創設し、次いで1996(平成8)年11月厚生省大臣官房障害保健福祉部長「厚生省関係障害者プランの推進方策について」、厚生省「障害福祉関係3審議会合同企画分科会の設置について」、さらに介護保険制度の導入をふまえ、障害種別を越える検討に入るべく1997(平成9)年12月身体障害者福祉審議会・中央児童福祉審議会障害福祉部会・公衆衛生審議会・精神保健福祉部会合同企画分科会「今後の障害保健福祉施策の在り方について(中間報告の要旨)」が相次いで出された。ここまではなお公費によるサービス提供維持・充実が提言された。

 

2.障害福祉の世界にも規制緩和がやってきた

(1)施設体系の規制緩和――相互利用制度や定員要件の緩和

1990年代末の特徴といえる動きは、市町村への権限委譲に付随する規制緩和が加速し、「利用者本位の考え方に立つ」「新しいサービス利用制度」と「自己決定を支援する仕組みの制度化」が強調される点であろう。

措置制度が市場を排除し、行政が直接サービス提供の配分を行う仕組みであったから、規制緩和の方針でも、「公的責任や公費負担を後退させない」との弁は繰り返されてきた。その上で、1999(平成11)年1月に、「今後の障害保健福祉施策の在り方について」で利用料助成・利用者負担の在り方が盛り込まれ、同じく身体障害者福祉協議会「今後の身体障害者施策の在り方について」の施設の入退所基準の明確化と相互利用推進、および中央児童福祉審議会「今後の知的障害者・障害児施策の在り方について」も相互利用制度の活用を勧めた。

相互利用制度は授産施設の定員要件の緩和とも連動した。1999(平成11)年9月厚生省大臣官房障害保健福祉部長「知的障害者及び精神障害者に係る通所授産施設の相互利用制度について」や、2000(平成12)年11月厚生省大臣官房障害保健福祉部長「身体障害者、知的障害者及び精神障害者に係る授産施設の相互利用制度について」で、利用しやすく、運営しやすい形態が示された。

(2)社会福祉法人の要件緩和

これと連動して社会福祉法人の要件も大幅に緩和された。小規模多機能の施設づくりが目指された。小規模作業所との連携による地域での雇用開拓として、1999(平成11)年9月厚生省大臣官房障害保健福祉部障害福祉課長/精神保健福祉課長「地域障害者職業センター(労働省所管)における社会福祉法人等及び小規模作業所との連携による職域開発援助事業の実施について」や、小規模通所授産施設の運営の安定と増設を図るための2000(平成12)年12月厚生省大臣官房障害保健福祉部長/厚生省社会・援護局長「障害者に係る小規模通所授産施設を経営する社会福祉法人に関する資産要件等について」が出てきた。

 

3.地域生活支援と権利擁護の組み合わせ、それに即した各種施策の登場

(1)地域生活支援

当事者が主体的に関わる地域生活支援は身体障害が先駆となるのだが、2000(平成12)年7月の身体障害のホームヘルプサービス事業[2]、同年12月の厚生省大臣官房障害保健福祉部障害福祉課長「身体障害者デイサービス事業の事業費補助方式の取扱いについて」、厚生省大臣官房障害保健福祉部「身体障害者デイサービス事業及び身体障害者短期入所事業利用者に適用する国庫補助基準単価の取扱いについて」などに、集約された。

また施設・病院から地域生活への移行支援に際して期待されるケアマネジメントが、身体障害・知的障害・精神障害の障害種別のケアマネジメントから初めて三障害共通のケアガイドラインとして、2002(平成14)年3月厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長「障害者ケアガイドライン」に公表された。

地域生活支援で市町村行政が責任を持つ体制では、支援費制度と相談所業務との連携が不可欠であり、2002(平成14)年11月「身体障害者更生相談所のあり方報告書」「知的障害者更生相談所のあり方報告書」がまとまられた。

2000(平成12)年以降の重点施策となったのは、精神障害の地域生活支援である。2002(平成14)年3月厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長「精神障害者居宅生活支援事業の実施について」、厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部精神保健福祉課長「精神障害者居宅介護等事業における24時間対応ヘルパー(巡回型)事業の実施について」で、社会的入院の解消と、地域での自立ならびに医療的配慮が優先課題になった。しかし、地域住民の反対も多発しており、障害者の地域での居場所を確保するための課題は多い。

(2)障害児への支援、権利擁護その他

障害児教育の方でも、大きな転換が見られた。2001(平成13)年1月「21世紀の特殊教育の在り方について」最終報告で、特別支援教育や発達障害児支援が提起され、また2000(平成12)年6月社会福祉事業法等の一部改正の公布でも、障害児・家族の地域生活支援のための相談支援事業が法定化された。

なお障害者の社会参加を副次的に促進する手段として、2002年(平成14)5月「身体障害者補助犬法」を皮切りに、介助犬・聴導犬の訓練や認定基準の報告書も出された[3]

障害理解と権利擁護に関する法改正も、1998(平成10)年9月「精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正する法律」、1999(平成11)年6月「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律等の一部を改正する法律」、そして1999(平成11)年8月「障害者に係る欠格条項の見直しについて」など、「自己決定を支援する仕組みの制度化」の潮流の中で、地域生活支援と歩調を合わせて相次いで着手された。

(3)雇用

2001(平成13)年1月厚生労働省が発足したことで、社会福祉と雇用政策との連携がこれまでよりは円滑になるものと期待されているが、精神障害はここでも重点課題にされた。2001(平成13)年8月厚生労働省の研究会が「精神障害者に対する雇用支援施策の充実強化について」を提案し、さらに同年11月「今後の障害者雇用施策について〜『障害者雇用問題研究会』報告」が出され、その後、2002(平成14)年5月厚生労働事務次官「障害者の雇用の促進等に関する法律の一部を改正する法律について」、厚生労働省職業安定局高齢・障害者雇用対策部長/社会・援護局障害保健福祉部長「障害者就業・生活支援センターの指定と運営等について」へと繋げられた。                                  

 

4.支援費制度は自己決定の尊重に繋がるのか

(1)支援費制度

支援費制度は2003(平成15)年4月から施行された。措置制度が一部持続されるが、原則は「措置から契約へ」の選択の制度になった。

支援費制度(2001(平成13)年8月「支援費制度の事務大要」など)の問題点は、介護保険制度への一元化で決着が図られると予見され、介護保険制度との関連が1999(平成11)年10月および2000(平成12)年3月に「介護保険制度と障害者施策との適用関係等について」においても明記された[4]

また2002(平成14)年12月内閣府「障害者基本計画」(2003年〜2012年)と、「重点施策実施5か年計画」が定められ、ここに社会福祉基礎構造改革で意図されていた障害者施策の全容がほぼ明らかにされたといえる。

そもそも「措置から契約へ」の制度転換の拙速さに、障害者・家族は乗りにくい。というのは、障害者問題が、障害発生の時期、程度、障害種別で差異が目だつし、むろん家族構成によっても生活の質は左右される。この点で団塊の世代の高齢者像を念頭におき、応益負担が可能な資産形成を成し遂げている階層にねらいを定め、市場化・営利化に道を開き、所期の目的を果たした介護保険モデルとは、異なっている。

要するに、介護・保育制度改革がめざす市場化・営利化によるサービス拡充策の趨勢の中で、不利益をこうむりやすいのが障害者・家族なのである。この趨勢が進む場合、一方ではサービス購入によって快適で利便性の高い生活が期待されるが、他方ではサービス量不足で選択ができず、かつサービス購入の自己規制をしかねない障害者・家族が生まれることになる。それだけに市町村レベルで行政責任の最適基準の在り方や、サービス量の認定から受給開始までを、誰の権限で、どのような形態で支給決定するのかは、たとえ近い将来に介護保険制度に一元化されたとしても、未決の課題として残る。

(2)支援費という制度設計の背景にあるもの

ここでは1997(平成9)年に始まる社会福祉基礎構造改革との関連に若干言及してみる。

「障害者福祉にとって社会福祉基礎構造改革とは何だったのか」と問えば、措置制度解体が意図されていたと答えるしかない。社会福祉以外の分野で提起されていた「国家責任の緩和、地方行政への権限委譲、営利企業の参入」などのキーワードが、障害福祉の世界にも導入され、契約や対等の関係という概念があたかも障害者問題を解く魔法の呪文のごとくに、公式見解では扱われた。関係各位がこぞって新語を多用し、社会福祉士養成のテキストが書き換えられ、むろん試験問題にもなった。

しかし、この間の一見には小さな法改正や通知が内包する意図は、今もなお障害種別で蛸壺型施策が主流になっているためか、容易には読みとれない。

審議会・検討会文書作成の前後に微調整が始終行われ(それ自体は正しいのだが)、そのためなのか社会福祉基礎構造改革の起点にされる1997(平成9)年11月社会福祉事業等の在り方に関する検討会「社会福祉の基礎構造改革について(主要な論点)」で提起された社会福祉の基本理念−すなわち「個人の自己実現」「社会的公正の確保」−は、キーワードの域を出てはいない。「社会連帯の考え方に基づく公的助成を行うことにより、利用者を支える仕組み」という新制度へと繋げられるはずの提言も、1998年度前半までに十分に検討されたとは言い難く、むしろ当面のねらいである措置制度解体が先行する。

折しも1998(平成10)年3月31日閣議決定で、「規制緩和推進3か年計画」が介護・保育で民間企業参入の検討を示していく時期でもあった。こうした趨勢から、1998(平成10)年12月中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会「社会福祉基礎構造改革を進めるに当たって(追加意見)」で、「利用料助成」「福祉サービス確保のための公的責任」が再び強調されるものの、移行期特有の混乱が目だつのが、現下の支援費の状況である。

おおむねこの間の障害者団体・運動の規制改革の情勢分析は、弱かったのではないか。措置制度は行政処分で選択不可能とする論調が、権利擁護や対等な関係を重んじるサービス提供の構想と組み合わされ、それを検討する時間的余裕もないままに、政策決定のタイムスケジュールに巻き込まれ、支援費問題でも現状維持の譲歩を引き出すことが優先されていく。

そもそも支援費制度の「何が問題なのか」を問い、情報開示を促し、世論を喚起し、補助金が出るという仕組み自体に、上からの情報操作が見えてくる。福祉行政・官僚のポリティクスでは、何よりも民主的手続きが遵守される。審議過程への障害当事者の参加が容易になり、審議会情報公開もされ、新聞・テレビ報道も迅速であり、福祉系大学の急増で研究者・出版社の制度解説への反応もすばやい。

情報量は確かに多い。たぶん多すぎる。それだけに、矢継ぎ早に出される枝葉的な情報によって、逆に何が施策の骨子であり、事態がどのように進行しているのかも理解できないままに審議が終わる場合が、審議会委員やワーキンググループ参加者でも結構いる。事業者参入が進まないとの事前情報があったとはいえ、支援費がすぐさま予算不足に陥る事態を予測できないはずはない。しかも、当事者団体が起こすかもしれない抗議も制度設計にあらかじめ(あるいは事後調整的に)組み込めるように幅を持たせ、審議への参加資格を拡張しながら、その上で難局を乗り切るカードはこれしかない(今風の例で言えば「介護保険制度への一元化しかない」になる)とする。

こうした福祉行政・官僚のポリティクスと、下からの権力である関連機関・団体との相互補完的な関係こそが、日本の脱施設化を遅滞させ、同時に入所施設整備の充実を第2臨調下でも可能にした。同時期の特殊教育制度も、これに近似する関係が見られる。ここでの民主的手続きによる公平な利益の配分は、ノーマライゼーション理念の提唱と入所施設増設の共存体制を許容し、同時に理念と現実との狭間で出てくる施策によって、ブラックボックスのような複雑性を構築していく。しかも現下で改革のカードを切る場合でも、結局はこの仕組みの複雑性に依拠するしかなく、それがまた福祉国家が「終焉」に向かう途上でのポリティクスになっている。

歴史がいつの日か、措置制度批判をテコに登場する支援費制度と、支援費問題から給付の法定化にいたる背景を、「何が“改革”を阻害する問題とされ、何が成果とされたのか」の題材に取り上げるならば、結局はこうした仕組みの複雑性を解体する、そういう役割が求められよう。

 

(岡田英己子)

 



[1]総理府訳による。通例は「基準原則」の訳語が定着。中野善達編(1997)『国際連合と障害者問題――重要関連決議・文書集』(エンパワメント研究所)では、英語の意味に即して「障害をもつ人びとの機会均等化に関する基準原則」と訳されている。同日の12月20日に、インクルージョンや完全統合に関する国連の主導的役割も決議されている。