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国立社

会保障・人口問題研究所

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7 企業年金・農業者年金

 

1.企業年金

 日本の企業年金制度は、1962(昭和37)年に発足した税制適格年金と1966(昭和41)年に発足した厚生年金基金を中心に、順調な経済成長とともに公的年金を補完する制度として発展してきた。厚生年金基金は企業年金制度としては後発であったが、1980年代以降には、大企業単位の基金に加えて中小企業の総合型基金の設立も進み、厚生年金の代行部分を含めた資産規模を急拡大させ、日本の企業年金制度の中核的存在となった。

 基礎年金改正後、企業年金は年金改革の重要な1項目として認識されることとなった。その主な課題は、中途脱退者等に係る年金通算制度と基金解散時の支払保証制度、さらに年金数理の適正化などであった。1988(昭和63)年3月16日に、これら課題に対応する厚生年金制度改正案要綱が年金審議会と社会保障制度審議会に諮問された[1]。同日に、年金審議会はこれを了承するという答申を行った[2]。また、社会保障制度審議会は同月19日に「おおむね了承する。」と答申し、あわせて「政府は、引き続き、公的年金制度を補完する企業年金等の普及を図り、多様なニーズに対応できる条件の整備に努められたい。」という意見を付した[3]

厚生年金基金連合会は、この方向性を踏まえて、年金通算制度と支払保証制度を具体的に検討した[4]。その結果、支払保証事業が全基金の参加する任意の共済事業として創設され、中途脱退者の一時金が代行部分の年金給付の上乗せとして支給できることとなった。さらに、年金基金が適正な年金数理に基づいて運営されることを確保し、加入員の受給権を確実なものとするために、年金数理人制度が創設された。

 また、それまで画一的であった資産運用に対する規制についても、1989(平成1)年厚生年金保険法改正により、一定の要件を満たす年金基金には投資顧問業者の参入や自家運用などが認められることとなった(1990(平成2)年4月スタート)。これを皮切りに、厚生年金基金連合会もさらなる規制緩和を求める動きを加速させ[5]、資産運用の規制緩和・撤廃の流れは、1990年代を通じて決定的なものとなった。

 しかし皮肉なことに、資産運用の規制緩和の進展と同じタイミングで、バブル崩壊後の株価低落期に突入し、5.5%の予定利率を下回る厳しい運用環境が常態化した。さらに1995(平成6)年の大阪紡績業年金基金の破綻が一つの契機となり、厚生年金基金制度そのものの再検討が進められた。

1996(平成8)年6月に厚生省の厚生年金基金制度研究会が、基金財政の安定化と制度の弾力化を基本的な考え方とする報告を公表し、さらに同年11月には、厚生年金基金連合会の21世紀企業年金研究会が、厚生年金基金の民間的性格を強調する「企業年金の将来像」を発表した。これらの報告書は、公的年金を代行する厚生年金基金制度の維持を前提としていた上に、予定利率や免除保険料率の弾力化などの規制緩和を求めるものであった。しかし、利差損から発生する追加拠出や膨大な退職給付債務など、確定給付型企業年金が抱える根本問題の解決には程遠いものであった。

 1997(平成9)年3月には「企業年金に関する包括的な基本法の制定を検討する」閣議決定が行なわれ、アメリカのエリサ法を範とし企業年金の受給権保護を基本目的とする基本法の議論も進展したが、現実的には企業負担を軽減させる「確定拠出型年金」の導入と厚生年金基金の「代行返上」が大きな焦点になった。

日本経営者団体連盟(以下、日経連)は1998(平成10)年5月27日の提言の中で、日本の現状の仕組みでも「既にかなり高い水準で受給権は保全されている」との認識の上で、法律の強制よりも労使自治の原則による制度運営ともに、確定拠出型年金の導入と代行返上を強く求めた[6]。これに対して、厚生年金基金連合会は、確定拠出型年金の導入には賛成しつつも、代行返上に対しては一貫して反対の姿勢を表明していた[7]。2000(平成12)年4月から代行部分は企業会計上の退職給付債務に含まれることとなり、代行返上は避けられない路線となった[8]。代行返上した基金は、確定給付企業年金法の中で「企業年金基金」として位置付けられることとなった。

さらに確定拠出型年金制度要綱が2000(平成12)年2月23日、社会保障制度審議会に諮問され、同日付けで答申を行なった。その中で同審議会は、確定拠出年金のポータビリティについて、1995(平成7)年制度審勧告の「中途退職等により年金権を失わないような施策」の趣旨に沿うものと評価する一方で、企業年金制度全体の包括的な法的整備の必要性などの諸課題も指摘した[9]

 

2.農業者年金

 日本の農業の近代化をはかるためには、経営規模の拡大により生産性の高い経営を行うことが戦後農政の基本課題とされてきた。その具体的な施策として、農民の老後生活の安定を保障することにより離農(経営移譲)を促進することを狙いとして、1975(昭和50)年に創設されたのが農業者年金基金法に基づく農業者年金制度である。この制度趣旨からも明らかなとおり、農業者年金制度は、農業政策的側面が強いものであり、財政的にも拠出時と給付時に国庫補助を投入する賦課方式がとられていた。社会保障制度審議会は、制度発足の当初から、社会保障制度本来の年金制度のあり方から農業者年金制度に対して疑念を表明にしていた。

1980年代、90年代をとおして、農業者年金制度は、国民年金・厚生年金の老齢年金額の改定などを受けた給付額の引上げとそれに対応する保険料の改定および経営移譲年金など特徴的な制度の変更が行なわれた[10]。社会保障制度審議会は、すでに1981(昭和55)年2月9日の答申の中で、農業者年金制度が「専業農家の後継者の確保、経営者の若返り農業政策上の要請に応えることを主眼とするものである」という基本認識とともに、「近い将来、年金財政上ゆゆしい事態が生じることは必死」であり、「農業者年金制度そのもののあり方について、抜本的検討を行われたい」と指摘した[11]。社会保障制度審議会は、その後の答申でも、農業政策上の有効性と年金制度としての社会的妥当性、財政的健全性について、根本的な検討を繰り返し求めてきた[12]。この要請は、1990年代後半の環境変化の中で、ようやく実行に移された。

1998(平成10)年12月に「農政改革大綱」がとりまとめられ、1999(平成11)年7月には「食料・農業・農村基本法」が施行され、戦後の農政が抜本的に改革されることとなった。農業者年金制度についても、農業の担い手不足や農業者の高齢化の進行で、年金財政が急速に悪化してきた。農業者年金制度の成熟度[13]は1989年度には100%を超え、さらに1999年度末には272%に達し、抜本的な改革が不可避になった。

そのような状況の中で、1999(平成11)年4月から農業者年金制度研究会が発足し、農業者年金制度のあり方についての抜本的な検討が行なわれ、1999(平成11)年12月に中間報告が取りまとめられた[14]。この報告では、経営移譲の相手方の過半がサラリーマン後継者になっている状況下において政策目的を「担い手の確保」に転換するとともに、財政方式を賦課方式から積立方式に見直し、既裁定者の年金給付を適正化するなどの方向性が打ち出された。この方向性に沿う形で、2001(平成13)年5月に農業者年金基金法の抜本的改正が成立し、2002(平成14)年1月から施行されることになった。

(森田慎二郎)



[3]社会保障制度審議会「厚生年金基金制度の改正について(答申)」を参照。

[4]厚生年金基金連合会「通算制度及び支払保証事業検討結果について」を参照。

[5]厚生年金基金連合会「運用規制の緩和・撤廃について」を参照。

[7]厚生年金基金連合会「要望書(企業年金法の制定についての要望)」1997(平成9)年12月18日、同「緊急要望書(厚生年金基金の代行返上論等について)」1999(平成11)年2月8日を参照。

[9]社会保障制度審議会「確定拠出型年金制度の制定について(答申)」を参照。

[11]社会保障制度審議会「農業者年金基金法の一部改正について(答申)」を参照。

[13]現役加入者に対する年金受給者の割合をさす。当初から賦課方式を採用した農業者年金では、成熟度の高まりは深刻な財政問題に直結した。