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国立社

会保障・人口問題研究所

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3 医療保険

 

1.1982(昭和57)年老人保健法成立

 1961(昭和36)年の国民皆保険・皆年金体制の発足後、社会保障は高度経済成長を背景に拡大を遂げていった。しかし、経済成長に比して社会保障は立ち後れた状態にあり、国民生活の安定と向上、社会的不公平の是正を求める声が次第に大きくなった。そこで政府は、1973年度の予算編成にあたって財政政策の課題に国民福祉の向上を取り上げ、この年を「福祉元年」とすることを宣言し、社会保障関係費を大幅に増額して給付水準の引上げと制度間格差の是正策を講じた。ところが、この年の秋に起こった第一次石油危機を契機に日本経済は高成長から低成長へと大きく転回し、財政状況が悪化するとともに、1975(昭和50)年頃から「福祉見直し」をめぐる論議が登場した。しかし、多くの地方自治体で革新政党の首長が選出され、国会でも革新政党が躍進し保守政権をおびやかすという保革伯仲の政治状況等を背景に、政府は野党に対抗するために福祉重視の政策を変えることができず、現実には社会保障改革は進まないまま高度成長型の社会保障政策が維持された。

 制度の見直しが求められたのは医療保険も例外ではなかった。なかでも老人医療費支給制度は財政悪化の原因であるとして、激しい論議の対象となった。1976年度予算編成で大蔵省が老人医療に患者負担を導入する案を示したのに対して、厚生省はそれを退けたものの、1976(昭和51)年2月には「老人保健医療問題懇談会」を発足させ、制度の見直しに着手した。懇談会は1977(昭和52)年10月に「総合的包括的制度の確立」を求める意見書を提出し、それを受けて厚生省は1979(昭和54)年から新たな老人保健医療制度を実施する意向を表明した。しかし、新制度の具体的な成案がまとまらないまま、1978(昭和53)年12月に小沢厚生大臣が別建ての老人保健医療制度を創設するという私案を発表し、1979年(昭和54)10月には橋本厚生大臣が財政調整を柱とする私案を発表したが、いずれも関係団体等の反対でそれ以上の進展はみなかった[1]。その他にも関係団体等からさまざまな改革案が提案されるなど、制度の見直しをめぐる議論は活発であったが、現実には改革がなされないまま給付が拡大し続け、国庫負担が増加し、財政赤字が拡大していった。

 このような社会保障政策に転換が図られたのは、1979(昭和54)年8月に福祉見直しを掲げた「新経済社会7ヵ年計画」が閣議決定され、1980年度予算編成で次年度からの社会保障政策の転換を迫られて以降のことであった。とくに老人医療費支給制度については、大蔵・厚生両大臣が1981年度には制度改正を図るという内容の覚え書き[2]を交わした。さらに1980(昭和55)年1月には行政管理庁が、老人医療費支給制度を見直すよう求めた「公費負担医療に関する行政監査結果に基づく勧告」を厚生省に提出した。

 厚生省は1980(昭和55)年3月、社会保障制度審議会(以下、制度審)に対して「老人保健医療対策に関する基本方針」について何の具体案も示さない白紙諮問を行い、同審議会は審議中に厚生省が具体案を提示するという条件で諮問に応じた。厚生省は同年5月に老人保健医療対策本部を設置して新制度の創設に向けた本格的な検討に入り、同年9月に「第一次試案」を発表し、制度審にも説明を行った。第一次試案は、(1)70歳以上の医療に加えて、40歳以上を対象に疾病予防のための保健給付を行う、(2) 医療は原則無料とするが、高所得者からは患者負担を徴収する、(3) 医療費は公費および各制度の拠出金でまかなう、(4)拠出金は各保険者の加入者数と所得によって按分するというもので、実質的には保険者間の財政調整と同じ効果をもつものとなっていた。制度審は12月に「現行の老人医療制度を抜本的に変えるべきだ」とする意見書を提出し、患者負担の導入についても条件付きで理解を示した[3]

 1981(昭和56)年3月には、厚生省から「老人保健法案要綱」が発表され、5月に「老人保健法案」が国会に提出された。法案は基本的には第一次試案に沿ったものであったが、患者負担については原則無料を改め一部負担の導入が盛り込まれた。第一次試案以来、関係団体や省庁からさまざまな意見が出されていたが、法案提出後、日本医師会、日本労働組合総評議会、そして健康保険組合連合会(以下、健保連)等から批判、反対の声が高まった。こうした関係団体等の批判や反対を抑え、老人保健法の制定に向けて牽引車としての役割を果たしたのが、1981(昭和56)年3月に設置された「第二次臨時行政調査会」(以下、第2臨調)であった。第2臨調は「増税なき財政再建」を掲げ、行財政改革によって財政再建を行うことを主張し、同年7月に「行政改革に関する第1次答申」を提出した。答申は、老人保健制度について、その早期実施を求め、老人医療の特性を踏まえた支払方式を確立して、いわゆる老人医療無料化を廃止することを提言した。1982(昭和57)年8月10日、老人保健法が衆議院および参議院で一部修正のうえ可決・成立した。老人保健法の成立は、1980年代社会保障改革の嚆矢をなすもので、この後、社会保障の各分野において第2臨調主導による制度改革が展開されることとなった[4]

老人保健法は1983(昭和58)年2月1日に施行され、それにともなって老人医療費支給制度は廃止された。老人保健制度の主な内容は、以下の通りであった。それは、(1)医療は70歳以上、医療以外の保健事業は40歳以上を対象とする、(2)医療に患者一部負担を導入する(外来:1カ月400円、入院:2カ月を限度として1日300円)、(3)患者負担を除く医療費のうち、30%を公費負担(内訳は国が20%、都道府県と市町村がそれぞれ5%ずつ負担)、70%を保険者負担とする、(4)保険者負担分については、その半分を医療費按分、残り半分を加入者按分として、保険者間の財政調整を行う、(5)老人病院について包括的な支払方式による新たな診療報酬(老人特掲診療料)を導入する、(6)保健事業として、健康診査をはじめ、疾病予防からリハビリテーションにいたる総合的な保健医療サービスの提供を行う、(7)老人保健制度の運営に関する審議会として老人保健審議会を設置する、であった。

 老人保健法の成立の意義として、次のような点が指摘できよう。第1には、この改革が第2臨調主導による財政再建策の一環として行われ、老人医療に係る国庫負担の削減を最大の目的とするものであったという点である。法の成立に向けた政府の説明等では、高齢化社会に向けた保健と医療の一貫したサービス体系の確立が謳われたが、現実には老人医療費の負担問題に焦点があてられ、保健医療政策の充実化は先延ばしにされたまま、制度の発足が急がれたのであった。第2は、改革の具体的方法として保険者間の財政調整が導入されたことであった。これにより、それまで国によって負担されてきた費用の一部が保険者および被保険者に転嫁されることになった。こうした財政調整方式は他の社会保障分野にも拡大し、1980年代の制度改革の主軸となった。第3には、老人保健制度における財政調整の導入は、老人に係る各制度間の給付と負担の均等化をはかるという点において、医療保険制度の一元化の第一歩を印すことになった。この後、医療保険制度全般にわたって給付と負担の一元化が課題として取り上げられるようになった。

 

2.1984(昭和59)年健康保険法等の改正

 老人保健法に続いて医療保険改革の課題となったのが、医療費全体を抑制し、国庫負担の削減を図ることであった。国民医療費は経済成長が鈍化した後も、国民所得の伸びを上回って毎年1兆円近く増加し、1982(昭和57)年度の国民医療費は13兆8000億円に達し、1983(昭和58)年度予算では医療費に対する国庫負担が4兆2000億円と厚生省予算の半分近くを占めた。なかでも国民健康保険は、産業構造の変化等にともない自営業者・農民中心の被保険者構成から企業を退職した無業の高齢者のウエイトが大きくなり、医療費の増大と保険料収入の減少をもたらし、そこには膨大な国庫負担が投入されていた。老人保健制度の創設で国の負担は軽減されたものの、財政再建に向けて国保に係る国庫負担のいっそうの削減が求められた。

第2臨調は第1次答申で、老人保健法の早期実施と並んで「医療費適正化」をあげ、国保や政管健保への国庫補助金の削減等を求めたのに続いて、1982(昭和57)年7月に出した「行政改革に関する第3次答申」(基本答申)では、「国民負担率」を用いて社会保障費の抑制を説くとともに、医療費対策として軽費医療における受益者負担の導入、国保財政の安定を図るための広域化等の推進、そして国立病院や医師等の医療供給体制の整備等を強く求めた。

 厚生省は臨調答申を受けて、60歳以上の退職者が老人保健制度の対象になるまでの間の医療費を被用者保険の共同負担とする「退職者医療制度」の創設について検討を行うとともに、医療費対策についても、臨調答申の国民負担率の考え方をふまえて、医療費の伸びを国民所得の伸び率程度にとどめるとする方針をたてた。この医療費と国民所得の関係についての方針は、その後の医療費対策の基調となった。また、医療費対策のほかに、新しい医療技術の出現や患者ニーズの多様化等に対応するために、保険適用となっていないそれらの先端技術や特別なサービス等について保険給付との調整が求められた。

1983(昭和58)年8月に政府は、1984(昭和59)年度予算に向けて医療費適正化対策と医療保険制度の改革を行う方針を明らかにした。そこでは、(1)各制度および本人・家族に対して均等な給付を行うことを目指して、被用者保険の本人給付率を8割とする、(2)入院時の給食材料費を保険給付から除外する、(3)特定承認保険医療機関で「高度先進医療」を受けた場合や保険医療機関で「選定療養」を受けた場合、通常の診療部分を保険給付の対象とする(特定療養費制度の創設)、(4)年収が一定以上の高額所得者を保険の適用から外す、(5)退職者医療制度を創設する、(6)退職者医療制度による国保の負担軽減に対応して、国保への国庫補助率を医療費の45%から、患者負担分を除く保険給付費の50%(医療費ベースで38.5%)に引き下げる、最後に(7)日雇労働者健康保険を廃止して健康保険に統合する、となっていた。続いて1984(昭和59)年2月には社会保険審議会は「退職者医療制度の創設について」答申を行った。

政府の改革案は各方面に大きな衝撃を与え、激しい論議がわき起こった。1983(昭和58)年12月の総選挙で与党自民党が大敗したこともあって、自民党内の慎重論が強くなり、次のような修正が行われた。(1)本人給付率は1986年度から8割とすることとし、それまでは9割とする、(2)給食材料費の給付除外は見送る、(3)高額所得者の適用除外は見送る、(4)特定療養費制度の創設、退職者医療制度の創設、国庫補助率の引き下げ、日雇労働者健康保険の健康保険への統合は、原案通りとする、(5)保険料収入を上げるため、標準報酬の上下限を大幅に引き上げる(上限:47万円→71万円、下限:3万円→6万8千円)。

これらの修正案に基づく「健康保険法等の改正案」を社会保障制度審議会および社会保険審議会に諮問し、両審議会から批判を受けながらも、全体としては改正案を否定しない答申を得た[5]。厚生省は答申をふまえて若干の修正を行い、1984(昭和59)年2月に健康保険法等の改正法案を国会に提出した。法案は、被用者保険本人の1割負担、退職者医療制度、そして特定療養費制度等をめぐって国会内外で激しい論議が行われ、関係団体はこぞって反対の声をあげた。しかし、日本医師会は会長選挙等で反対の勢いがそがれ、健保連は経済界が賛成の意向であったことなどから、幾つかの修正は行われたものの、改正法はほとんど大きな修正なしに同年8(昭和59)月成立し、10月から施行された 

 1984(昭和59)年の健康保険法等改正の意義として、以下の点が指摘できよう。第1に、老人保健法と同様に第2臨調の答申に沿った改革で、退職者医療制度の創設等によって国庫負担の削減が行われたことがあげられる。第2に「医療保険の一元化(給付と負担の一元化)」を名目に、近い将来に各制度と本人・家族の給付水準を8割に統一することと、制度間の財政調整による負担の公平化への方策が明示されたことがあげられる。具体的には、本人給付率を引き下げ、それによって生まれた財源を退職者医療制度にあてるということが行われた。それによって「医療保険の一元化」という中長期的目標の一環として位置づけたことが、国保被保険者をはじめ制度間格差に不満を感じていた人々の反対を弱体化させる効果をもったともいえよう。第3に、特定療養費制度を創設したことにより、保険給付の対象となっていない先端医療や特別なサービスについて、それらの安全性・効率性・普及性等を確認し、またそれらのレベルアップを図り保険診療へと移行させていく仕組みがつくられたことがあげられる。それは同時に、実質的に高度先進医療や選定療養において差額負担を認めることにつながり、後に「混合診療禁止」をめぐる議論において特定療養費のあり方が問われることにもなった。

 

3.1986(昭和61)年・1991(平成3)年・1995(平成7)年の老人保健法改正

 1983(昭和58)年の老人保健法の施行によって老人医療費は著しく減少し、国保財政も安定化の兆しをみせた。しかし、国保における老人加入率の上昇に加えて、退職者医療制度の創設にともなう国保に対する国庫補助率の引き下げなどによって、早くも1985年頃から老人保健法の効果が薄れてきた[6]。こうしたなかで老人保健審議会は、法施行後3年以内とされていた制度の見直しを行い、1985(昭和60)年7月、加入者按分率の100%への引き上げ、一部負担金の増額を内容とする「老人保健制度の見直しに関する中間意見」を提出した。また、同年4月に設置された「中間施設に関する懇談会」が、同年8月に中間報告「要介護老人対策の基本的考え方といわゆる中間施設のあり方について」を提出し、中間施設の検討を求めた。

 これらを受けて厚生省は1986(昭和61)年1月、「老人保健法改正案」をまとめ、老人保健審議会および社会保障制度審議会に諮問した。改正案の主な内容は、(1)加入者按分率を50%から1986年度80%、1987年度以降100%に引き上げる、(2)患者の一部負担金を引き上げる(外来:1カ月400円→1000円、入院:1日300円(2カ月限度)→500円(限度なし))、(3)中間施設として老人保健施設を創設する、(4)医療に特定療養費制度を導入する、となっていた。老人保健審議会はいずれも大筋で了承するとしながらも、それぞれの項目に関する反対意見も併記して答申を行った[7]。また、社会保障制度審議会は改正の姿勢に理解を示しながらも、いずれの項目についても慎重な配慮を求める答申を行った[8]。改正案については、加入者按分率の引き上げに対して経済団体、健保連、そして労働団体が反対し、一部負担の引き上げに対しては日本医師会、福祉団体、そして労働団体が反対し、国会の内外で激しい論議が展開された。

厚生省は関係審議会の了解を得たとして、1986(昭和61)年2月、原案通りに老人保健法改正法案を国会に提出した。法案は自民党の修正と参議院での修正を経て、1986(昭和61)年12月成立し、1987(昭和62)年1月から施行された。修正された主な内容は、以下の通りである。(1)加入者按分率は、1986年度80%、1987年度90%、1990年度以降100%とする、(2)一部負担金は、外来1カ月800円、入院1日400円(限度なし。ただし低所得者については従来通り)とする、(3)老人保健施設の位置づけや配置について検討し、施設療養費のうち医療に関する部分については中央社会保険医療協議会で審議する。この後、老人保健施設については、1年間を試行期間として、モデル事業が施行され、1988(昭和63)年4月から正式に事業が開始された。

 次に、1991(平成3)年の老人保健法改正についてみていこう。1986(昭和61)年改正では改正法の附則に、加入者按分率が100%となる1990(平成2)年までに拠出金の算定方式の検討を行い、必要な措置を講ずることが規定されていた。この規定を受けて1988(昭和63)年10月から老人保健審議会で見直し審議が始まった。こうしたなかで、先の改正で加入者按分率の引き上げを受け入れた健康保険組合連合会と経済団体からは、健保組合の拠出金が増加し組合財政が予想以上に悪化したため、公費負担率の引き上げが強く要求された。また、一部負担金についても、世代間の負担の公平および老健施設入所者と在宅老人の負担の均衡を図る観点から、その引上げが求められた。

 老人保健審議会は1989(平成1)年12月に「老人保健制度の見直しに関する中間意見」をまとめたが、負担割合や一部負担の見直しについては意見の一致をみることができなかった。さらに、1990(平成2)年2月に総選挙が予定されていたこともあって、1990年の老人保健法改正は見送られた。1990年8月、老人保健審議会に学識者による「老人保健制度研究会」が設置され、同年11月、研究会は介護に関連した部分に限定した公費負担率の引上げと、世代間の負担のバランスを考慮した一部負担金の引上げを提言した[9]

 厚生省はこの意見をもとに、1991(平成3)年1月「老人保健法の改正案」をまとめ、関係審議会に諮問し答申を得たうえ、同年2月に改正法案を国会に提出した。法案は衆参両院で一部修正された後、同年9月に成立し、1992(平成4)年1月に施行された。改正法の主な内容は、(1)老人医療費のうち介護に関連する部分(老人保健施設の療養費、介護力強化病院の入院医療費、老人訪問看護療養費、精神病院の老人性痴呆症患者病棟の入院医療費)に限り、公費負担割合を3割から5割に引き上げる、(2)患者の一部負担金を引き上げる(外来:1カ月800円→1991年度から900円→1993年度から1000円→1995年度以降は物価スライド制を導入、入院:1日400円→1991年度から600円→1993年度から700円→1995年度以降はスライド制を導入)、(3)老人訪問看護制度を創設する、となっていた。

 さらに1995(平成7)年には、拠出金算定に用いる老人加入率の上限を上回る保険者が多くなってきたことから、抜本的改革が行われるまでの暫定的措置として老人加入率の上下限の引き上げが行われた[10]

 1986(昭和61)年、1991(平成3)年および1995(平成7)年の三度にわたる老人保健法改正の意義として、次のようなことが指摘できよう。第1に、1986(昭和61)年改正における老人保健施設の導入と、1991(平成3)年改正の老人訪問看護制度の導入によって、医療とは別の老人介護対策が老人保健制度に組み込まれたということがあげられる。老人保健施設にはじまる中間施設の充実は、1989(平成1)年に策定された高齢者保健福祉推進10か年戦略(ゴールドプラン)の最大の目標とされ、デイサービスやショートステイの整備へと展開されていき、訪問看護制度もゴールドプランのなかで訪問看護ステーションの整備として取り入れられた。第2に、1986(昭和61)年改革における加入者按分率の引き上げは、老人医療費における国庫負担の削減を図るためであったが、同時にまた老人医療における制度間の負担の公平化を実現するものでもあったということである。第3には、老人医療費における保険者間の財政調整が次第に難しくなってきたことがあげられる。すなわち、一方では、健保組合の老人保健制度の医療費に対する拠出金が過重な負担となり、赤字組合の増加をもたらし、公費負担割合の引上げが行われ、他方では、国保の老人加入率が増加し、拠出金算定における老人加入率の上下限の引上げが行われたが、これらは制度間の利害の調整が次第に困難になることを予想させるものといえよう。

 

4.1985(昭和60)年〜1996(平成8)年の国民健康保険制度の改正

 老人保健法の制定、健康保険法等の改正、老人保健法の改正に続く次の課題は、国民健康保険の財政を強化することであった。国民健康保険は国民皆保険体制を支える基盤として大きな役割を果たしてきたが、多くの構造的な問題を抱えていた。なかでも、自営業や農業を営む被保険者の減少と高齢化に加えて、企業を退職した高齢で無業な被保険者の割合が高くなり、医療費が増大する一方、保険料収入が減少し、多くの国保は財政難に陥っていた。それに加えて、保険者が約3,300の市町村に分立し、被保険者規模に大きな差違があると同時に、市町村間の財政規模の相違も大きく、被保険者の負担にも大きな格差があった。なかには高額な医療給付が生じると、たちまち保険財政が逼迫してしまう保険者も少なくなかった。また、国保直営の病院を有する市町村は、その経営自体から生じる負担も加わるという問題もあった。こうした構造的な問題に対処するため、国は多額の補助金を支給し、国保財政の安定と格差の是正を図ってきた。しかし、それらの補助金による国の財政赤字が拡大したため、補助金の削減による財政再建が強く求められ、1983(昭和58)年以降国庫負担に替わって老人保健制度や退職者医療制度による保険者間財政調整が導入された。けれども、そうした対策だけでは国保財政を安定させるにはいたらず、国保の脆弱な財政基盤そのものを強化するため抜本的な対策が求められたのである。

 1987(昭和62)年2月、国保改革の検討の場として「国保問題懇談会」が設置された。厚生省は同年10月、懇談会に国保改革の「厚生省試案」を提出し、国保改革で早急に取り組むべき基本的課題として、低所得者問題と医療費の地域格差問題の2点を上げ、それらに関する改革案を示した。厚生省試案は、低所得者問題については低所得者層を対象に国・都道府県・市町村の負担による「福祉医療制度」を創設すること、医療費の地域格差問題については、年齢構成の相違による地域差に対しては従来どおり調整交付金で対応し、医療機関など年齢構成以外の要因による地域差に対しては都道府県と市町村による共同負担で是正するというものであった。厚生省試案の福祉医療構想に対して、自治省や地方自治体は負担を地方に押しつけるものだとして反対し、また世論も医療保険に格差を持ち込むとして反対した。こうしたなかで懇談会は、上記の2点が国保財政安定化のための鍵であるとしたうえで、低所得者対策については厚生省案のように給付面からではなく、低所得者に起因する保険料の減収を補填する対応策も考慮すべきこと、また医療費の地域差については国がその要因を明らかにしたうえで、調整交付金に加えて地方の負担調整を図るべきことなどを提示し、それらに関する複数の意見を併記した報告書を提出した。

 1988年度の予算編成では国保問題が大きく取り上げられ、1987(昭和62)年12月、厚生・大蔵・自治の三大臣の間で、退職者医療制度の未補填金1000億円を1987年度の補正予算で補填することを前提に、さらに国保問題への対策について合意が成立した。厚生省は三大臣の合意に基づき国保法改正案を作成し、1988(昭和63)年1月に社会保障制度審議会に諮問し、答申を得て、同年2月に国保法改正法案を国会に提出した。改正法案は同年5月可決成立し、同年6月に公布された。国民健康保険法単独の改正としては22年ぶりのことであった[11]

改正の主な内容は、以下の通りである。(1)低所得者問題に対する暫定措置として、保険料軽減措置による収入減少分を一般会計から国保特別会計への繰入れによって補填する制度を創設し、国はその2分の1、都道府県はその4分の1を負担する(保険基盤安定事業の創設、1988年度は1000億円)、(2)国保団体連合会が行っている高額医療共同事業に対して国と都道府県が費用の一部を補助する(1988年度は国が10億円、都道府県が190億円)、(3)医療費の高い地域では医療費水準の是正計画(医療費安定化計画)を策定するとともに、著しく高い医療費の一定部分について、国・都道府県・市町村が6分の1ずつ負担する、(4)老人保健拠出金の算定方式を変更する。

 1990(平成2)年6月、再び国保法が改正され、1988(昭和63)年改正で暫定措置とされた保険基盤安定事業が恒久化された。また、基盤安定交付金とは別建てで給付費の50%を負担し、国庫負担増額分を財政調整交付金に重点配分することとした[12]

しかし、その後も国保財政の不安定な状態が続いたため、1993(平成5)年に2年間の暫定措置として、次のような国保法改正が行われた。(1)国保の保険者の責めに帰することのできない事情(低所得者が多いこと、病床数が過剰なこと、高齢者が多いこと等)により不安定化している国保財政を安定させるため、それらの事情を勘案して算定した額を一般会計から国保特別会計に繰り入れることができる(国保財政安定化支援事業の創設)、(2)保険基盤安定事業による繰入金の国庫負担額を2分の1定率負担から定額負担(1993年度は100億円)に変更する[13]

1992(平成4)年に設置された医療保険審議会では、国民健康保険部会を設け国保改革について検討をすすめてきたが、1994(平成6)年6月「これまでの検討内容の中間まとめ(国民健康保険)」を発表した。そこでは、国保制度の意義、問題点、国保改革の基本的考え方、当面の改革の方向、そして国と地方の役割分担等について述べられているが、国庫負担を中心とした財政的な支援策が中心となっていた。1995(平成7)年には国保法が改正され、(1)高額医療費共同事業の拡充・制度化、(2)保険基盤安定事業の国庫負担の特例の2年間の延長と増額、(3)財政安定化支援事業の2年間の延長、(4)応益割合に応じた保険料軽減化の拡充などが行われた[14]

1985(昭和60)年から1997(平成9)年までの国民健康保険法改正の特徴としては、次のような点が指摘できよう。第1に、国保がそのリスク構造からいって国庫負担による支援なしには存立し得ないという制度的特性に対して、国保制度そのものの改革を回避したまま暫定的な財政対策を繰り返してきたことがあげられる。すなわち、1980年代前半の財政再建策のもとで老人保健制度や退職者医療制度による負担軽減が図られたものの、国保への国庫負担削減によって財政困難に陥り、1980年代後半は景気上昇とバブル経済のもとで一般会計の繰入という暫定的な対策が講じられた。1990年代に入り国の財政事情が厳しくなるなかで、国保の構造的問題はますます深刻化し、一般会計の繰入という暫定措置を延長しつつ、抜本的な改革を模索する状況が続いた。第2に、これまで国保にあまり関与してこなかった都道府県に対して、国保事業への財政支援を求めるようになったことである。これは国庫負担の肩代わりであると同時に、都道府県が国保の運営にも関与していくようになったことを意味している。第3には、上記のような財政対策が行われてきたにもかかわらず、保険料負担の困難な低所得者層の増加、小規模保険者の増加、保険料の地域格差、被保険者の高齢化にともなう医療費の増加といった問題はますます深刻化しており、それらは財政対策だけでは解決できないという認識が強まってきたことがあげられる。

 

5.1985(昭和60)年から1996(平成8)年までの健保法等改正と抜本改革をめぐる動き

 1984(昭和59)年の健康保険法等改正の後、安定的な経済成長が続いたこともあって、医療保険は被保険者数の伸び、標準報酬の上昇などによる保険料収入の伸びが大きく、また老人保健制度の実施、被保険者本人の給付率の引き下げ等の効果もあって、黒字基調が続いた。そうしたなかにあって医療保険制度改革をめぐる議論は各方面で続けられていた[15]が、バブル経済の崩壊、景気の低迷により、医療保険財政が次第に逼迫したのにともない、その本格的な検討が求められるようになった。

 1992(平成4)年6月そうした検討の場として、学識経験者のみで構成される「医療保険審議会」が設置された。同審議会は改革にあたって検討すべき課題を整理し、1993(平成5)年1月「医療保険審議会における検討項目」として8項目をとりまとめ、逐次検討に入った。

 1993(平成5)年6月、検討項目Tの「公的医療保険の役割」およびUの「保険給付の範囲・内容」について検討した「中間まとめ」が発表された。そのうち、保険給付の範囲・内容の見直しについてさらに検討が進められ、同年12月厚生大臣に「建議書」が提出された。このなかで、保険給付に関する基本的な考え方が述べられるとともに、具体的に「付添看護・介護や在宅医療、あるいは入院時の食事や、病室等について、これらを一体のものとして保険給付の在り方を見直していくことが適当である」と指摘された[16]

 建議を受けて厚生省は、付添看護、在宅医療、入院時の給食に係る健康保険法等の改正案をまとめ、1994(平成6)年2月に関係審議会に諮問し、了承する旨の答申を得た。同年3月に改正法案が国会に提出され、同年6月に成立し、そして同年10月から施行された[17]

 続いて1995(平成7)年8月、医療保険審議会から検討項目Vの「給付と負担の公平」、Wの「医療費の規模及びその財源・負担のあり方」、Xの「医療保険制度の枠組み及び保険者運営のあり方」についての「中間とりまとめ」を発表した[18]。そこでは老人保健福祉審議会で検討が進められていた高齢者介護システムの創設を中心に、老人保健制度や国民健康保険の改革について述べられているが、具体的な提案はなかった。また、同じ年の7月には社会保障制度審議会から「社会保障制度の再構築―安心して暮らせる21世紀の社会をめざして―」と題する勧告が出され、社会保障の理念および制度体系の改革が必要であるとして、その具体策の1つに介護保険制度の創設があげられた。

1990年代後半は、経済成長の鈍化と経済のグローバル化、少子高齢化の進展、財政状況の悪化等を背景に、社会保障の負担軽減と効率化が求められ、社会保障全体の構造改革を求める意見が強くなった。その具体案として、介護保険制度の創設を第一歩として医療保険改革を行い、引き続き医療・年金制度の改革へと向かうという「社会保障構造改革」が提起され、いわゆる医療保険制度の抜本改革が課題となった。

 

6.1997(平成9)年健康保険法等改正

 1996(平成8)年6月、医療保険審議会から「今後の国民医療と医療保険制度改革のあり方について(第2次報告)」が出された。そこでは、医療保険の立場からみた医療提供体制のあり方が論じられ、医療保険制度および医療提供体制の両面からの改革が必要であるとされ、報告書の末尾には審議過程で出された意見を整理して「制度改革のための検討項目」が示された。続いて同年7月には同審議会から、検討課題を一覧にした「今後の医療保険制度改革について」が公表され、「当面の改革」として、医療提供体制、医療保険制度医の役割、医療保険制度の構造、患者負担・保険料負担等、診療報酬体系等、その他があげられ、それぞれについての検討課題(施策メニュー)が提示された。さらに同年11月、同審議会から「今後の医療保険制度のあり方と平成9年度改革について」という建議書が提出された。建議書は「21世紀初頭に目指すべき医療保険制度の姿を提示し、それに向けての医療保険制度の全般的な改革を実施する」としたうえで、その第一段階として1997(平成9)年改正を行うことを提言した。続いて12月には、同審議会から「国民健康保険制度の改革についての建議書が出され、国保改革を医療保険制度改革の一環として位置づけるとともに、国保固有の問題点の整理とその対応が求められた。

また、同じ12月に老人保健福祉審議会から「今後の老人保健制度改革と平成9年改革について(意見)」が出され、2000(平成12)年の介護保険制度の施行にあわせて、老人保健制度に代わる新たな制度を創設し、老人医療費の負担の仕組みを変える必要があると述べられた。そこでは、後に高齢者医療制度をめぐって提示された4つの改革案に近似した「独立の高齢者医療保険制度を創設する」「被用者保険と国民健康保険に継続加入し、制度の加入率に応じた財政調整を行う」「高齢者も含めて全国民対象の制度に統合する」「現行制度を維持しつつ必要な見直しを行う」という4つの選択肢が掲げられていた。こうした医療保険制度改革をめぐる審議会の動きに対して、関係団体等からも制度改革をめぐる提言や意見が出され、1997(平成9)年の医療保険制度改革に向けての動きが強まっていった[19]

しかし、厚生省と自民党の間で改正案がまとまらないうちに、抜本改革に関する法改正を行う時間的余裕がなくなる一方、毎年巨額な赤字が生じている医療保険、とくに老人保健制度と政管健保に対する財政対策を講じないと1997年度予算案の編成が危ぶまれるという状況への対応が強く求められた。そのため1996(平成8)年12月、与党三党の「与党医療保険制度改革協議会」(以下、与党協)が、抜本改革を行うことを前提に、当面の財政対策を改正案として取りまとめることで、収拾が図られた[20]。この改正案が取りまとめられた後、老人保健制度、国民健康保険制度、さらに診療報酬制度などの主要な改革課題は、2000(平成12)年の実施に向けた検討に委ねられるという流れが形成されていった。

患者負担の引き上げを主な内容とする健康保険法等改正案には、日本医師会や労働組合等から強い反対意見が出されたが、厚生省は関係審議会の諮問・答申を経て、改正法案を作成し、国会に提出した。改正法案は、衆参両院で一部修正のうえ、1997(平成9)年6月成立し、同年9月から施行された。法改正の主な内容は以下の通りである。(1)被用者本人の患者一部負担を1割から2割に引き上げる、(2)老人保健制度における患者一部負担を引き上げる(外来:月額1020円→1回500円(同一医療機関月4回まで)、入院1日710円→1997年1000円、1998年1100円、1999年1200円(低所得者は300円→500円))、(3)老健拠出金の算定における老人加入率の上限を引き上げる(24%→25%)、(4)外来薬剤費に患者一部負担を導入する、(4)政管健保の保険料率を8.2%から8.5%に引き上げる、(6)国保については保健基盤安定事業の国庫負担の暫定措置の延長(1997年度450億円、1998年度600億円)と定率国庫負担への復元(1999年度)、国保財政安定化支援事業の3年間の継続、高額医療費共同事業の拡充等を行う、(7)医療保険福祉審議会を創設し、医療保険審議会および老人保健福祉審議会を廃止する。

 

7.2000(平成12)年健康保険法等改正

 1997(平成9)年の健康保険法等改正は、医療保険制度の抜本改革を前提とする暫定的な財政対策であったことから、改正法案の国会審議が行われる一方で、厚生省や与党協では抜本改革案の検討が続けられた。1997(平成9)年4月に与党協が「医療制度改革の基本方針」を取りまとめ、同年8月7日に厚生省は「21世紀の医療保険制度(厚生省案)」を与党協に示した。そこでは、(1)診療報酬体制、(2)薬価基準制度、(3)医療提供体制、(4)医療保険の制度体系、(5)高齢者医療制度、(6)医療費の適正化の推進等の6項目について改革の方向が示された。これを受けて与党協は、同年8月29日に「21世紀の国民医療―良質な医療と皆保険制度確保への指針―」を発表した。その内容は、(1)医療提供体制、(2)薬価制度、(3)診療報酬体系、(4)高齢者医療保険制度、(5)医療費適正化からなっていた。厚生省案と与党協案は、診療報酬体系や薬価制度については類似していたが、与党協案には医療保険の制度体系に関する改革案がなく、また、高齢者医療制度についても厚生省案が医療保険の制度体系と関連させ複数の案が出されているのに対して、与党協案は独立した高齢者医療保険制度の創設のみが提示されているなど、相違がみられた。また、経済団体連合会、日本医師会、健保連、国民健康保険中央会、日本労働組合総連合会などが相次いで、それらの改革案に対して意見を述べ、また独自の改革案を提示し、激しい議論が展開された。

 医療保険制度の抜本改革については、1997(平成9)年9月に創設された「医療保険福祉審議会」の制度企画部会で改革案の具体化に向けての検討が行われることとなった。そこでは与党協案を叩き台に、診療報酬体系の改革、薬価制度の改革、高齢者医療制度の改革、医療提供体制の改革という4つの改革が取り上げられた(診療報酬体系、薬価制度、医療提供体制の改革に関しては次項以下を参照)。

 改革の最大の焦点である高齢者医療制度の見直しについては、与党協案、厚生省案に加えて、関係団体からも提案が行われた[21]。医療保険福祉審議会制度企画部会ではそれらを、(1)独立保険方式、(2)突き抜け方式、(3)リスク構造調整方式、(4)統合一本化方式の4つに集約して検討を行い、1998(平成10)年11月に「高齢者に関する保健医療制度のあり方について」と題する中間意見書を提出した。そこでは、高齢者の保健医療の重要性を指摘し、新たな制度の設計における課題等を整理するとともに、「新たな制度の基本的枠組み」として独立保険方式と突き抜け方式の2つの考え方を取り上げ、それぞれの特徴を述べたうえで、政府に計量的側面と実務的側面を勘案して具体案を策定するよう求めた。厚生省はそれを受けて、2つの制度モデル案と両案における財政試算を提出した[22]

 ところが、独立方式を主張する日本医師会と突き抜け方式を支持する健保連の対立をはじめ、関係者間の主張・利害の隔たりは大きく、医療保険福祉審議会制度企画部会では1つの改革案にまとめることができなかった。1999(平成11)年8月、医療保険福祉審議会は中間意見書で出された2つの方式にリスク構造調整方式と統合一本化方式を加えた4つの案のメリット、デメリットを整理した「新たな高齢者医療制度のあり方について」と題する報告書を提出し、審議を終えた。同時に検討されていた薬価制度の改革と診療報酬体系の改革も頓挫し、抜本改革は2002年度を目途に先送りされることとなった。

 医療保険制度の抜本改革が先送りされたことによって、抜本改革を前提にしてきた医療保険財政の運営が厳しい状況に陥ってしまうことから、早急の対応が求められた。そのため、抜本改革がなされるまでの当面の対策として、財政対策を中心に健康保険法等の改正が講じられることとなった。2000(平成12)年1月、改正案が関係審議会に諮問され、答申を得て、改正法案が通常国会に提出された。しかし、衆議院の解散・総選挙による政治状況にともなって改正法案は審議未了・廃案となったものの、秋の臨時国会には再び提出されて成立した。改正法は2001(平成13)年1月から施行された[23]

改正案の主な内容は、次のとおりである。(1)老人保健制度の患者一部負担を定額負担から定率負担に変更する([外来]1日530円・月4回まで → 定率1割負担。診療所および200床未満の病院:月額上限3,000円、200床以上の病院:月額上限5,000円。診療所については事務処理負担の観点から1日800円・月4回までの定額負担も選択できる。[入院]一般:1日1200円、市町村民税非課税かつ老齢福祉年金受給者:1日500円 → 定率1割負担。一般:月額上限37,200円、市町村民税非課税世帯:月額上限24,600円、市町村民税非課税世帯かつ老齢福祉年金受給者:月額上限15,000円)、(2)外来薬剤一部負担を廃止する、(3)高額療養費の上限を引き上げる(一般:月額63,600円、市町村民税非課税世帯:35,400円 → 一般:63,600円+医療費の1%、市町村民税非課税世帯:35,400円、標準報酬月額56万円以上の上位所得者:121,800円+医療費の1%).

 医療保険制度の抜本改革が先送りされるなかで、暫定的な財政対策が繰り返されてきたが、高齢化の進展、医療技術の進歩、そして低位の経済成長等を考えた場合、近い将来、医療保険財政がますます逼迫の度を加えていくことが予想される。財政的な破綻に瀕している保険者も現れており、老人保健制度における保険者間の財政調整も、維持していくことが難しくなっている。医療費の伸びを抑制することは今後も続けられていくにしても、それだけでは不十分であり、医療保険制度の抜本的な改革がなされなければならないであろう。老人保健制度に代わる高齢者医療制度をどうするか、いずれも赤字構造となった医療保険組織の再編をどうするか、これは大きな問題である。さらに、医療機関の機能区分や患者本位の医療提供体制の見直し、医療技術の進展と医療ニーズの多様化をふまえた診療報酬体系・薬価制度の見直しなど、課題は山積している。今後の対応が注目される。

                                  (土田武史)



[3]社会保障制度審議会「老人保健医療対策について(意見」を参照。

[4]日本労働組合総評議会「老人保健法の審議経過と問題点」を参照。

[6]国保財政問題検討会「退職者医療制度実施に伴う問題点」(1985(昭和60)年7月26日)を参照。

[7]老人保健審議会「老人保健制度の改正について(答申)」を参照。

[9]老人保健審議会「老人保健制度研究会報告書」を参照。

[20]与党医療保険制度改革協議会「医療保険制度改革について(試案)」を参照。